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【報道写真問題】マッカリー氏フォトショップ問題に対する、マグナムの同僚アグトマエル氏のコメントとアップデート

「アフガンの少女」で有名な写真家、スティーブ・マッカリーさんのフォトショップの問題は、世界中の写真界で話題になりましたが、マッカリーさんと同じマグナムのフォトグラファーで、同僚にあたるピーター・ヴァン・アグトマエル(Peter van Agtmael)さんがTIME誌にこの事件に対する声明を載せていましたので紹介します。

Peter van Agtmael by Nathan Congleton
Peter van Agtmael by Nathan Congleton

報道写真家、アグトマエルさんのコメント

もし私のフェイスブックのフィードから判断するなら、報道写真のコミュニティの多くの人がマッカリー氏に対して不快感を表明している。私が件の加工写真を見た時に最初の反応は混乱だった。もし、あのイメージを加工編集したいならば、なぜこんな下手くそな仕事にOKを出したのだろう? この点から、彼の「スタジオ内の誰かが勝手にやった行動」だという弁明には信憑性があると考える。

もちろん私はこれに対する答えを知っているわけではないが、この点はどうでもいいと考えている。なぜなら、この作品に関して言えば、意味が変わる程の変更が加えられているわけでもなければ、どうしても真実をそのまま伝えなければいけない文脈で撮られた写真でもないからだ。

今回の事件は問題となった写真そのものの問題というより、いくつかの別の問題を提起するきっかけとなったと言えるだろう。

この問題について一つ付け足して置きたいことがある。報道写真の分野をメインに活動する全ての写真家が、全てのデジタル加工についてオープンにしなければならないということだ。

私はほとんどのデジタル加工については問題ないと思っているが、人を騙す行為があったらそれは許されるべきではないと考える。

写真はとても主観的なものだ。マッカリー氏に対する批判の多くに、「真実」「客観性」といった言葉が使われていることに気づいたが、私はこれらの言葉を信じていない。2人の人間が一つの共通した「真実」を持っていることなど見た事が無いし、本当の「客観性」が誰にでもわかる形で何かに適用されているところも見た事が無い。

これらの言葉は素敵な言葉ではあるが、「こうあったらいいな」というような抽象的な領域に属するものであり、時に事実や歴史の深い認識を阻むことすらある。我々は事実と真実を間違えてはいけないし、また「どの」事実が「どのように」使われているか常に疑問を持っていなくてはいけない。

難民の問題は疑う余地無く、人類の歴史上最もドキュメントされている出来事の一つであるが、メインストリームのメディアや写真コンテストなどのイメージを見てみると、それらは必ず恐怖や悲しみを写したものである。これらのイメージはこの出来事を表象するシンボルであるだろうか? もちろんそうだ。では、これらのイメージは来事のすべてを捉えるだけの正確さとバランスが備わっているか? それは違うだろう。
例えばアラブ人(と他のグループ)はメディアによって何十年もの間非人間化されている。暴力がハイライトされて報道され、被害者化され、それが異国のエキゾチックなものとして報道されている。10年以上現地で仕事をしてきた報道写真家として言わせてもらうと、これらのイメージは(少なくとも私の)真実ではないし、「客観性」という言葉からも程遠い。それでもこれらのイメージは文脈を抜きに毎年繰り返して流されている。

写真の被写体がどのように表象されるかということは、撮影する写真家に大きく左右される。その写真家が影響を受けた写真家達、写真コンテストやその審査員の方針、本人のスタイル、レンズのチョイス、ポジション、フレーミング、編集、機材のチョイス、トーン、シークエンス、それら全てに左右され、またそれら全ては主観的で、人為的に手が加えられている。

その結果できた写真は、いろいろな「事実」の集積であるが、「真実」だとして外に出される傾向がある。

これらの「事実」は、良くても「個人的な真実」でしかなく、悪ければ、ねじ曲げられ、ドラマチックに表象された(多くの場合非人格化された弱者である)被写体だ。大抵の報道写真は、この中間のどこかに当てはまる。

写真というメディアに内包されている、何か起こっていることを一瞬で切り取るということ自体が既に、その出来事をかなり限られた範囲でしか理解できないということなのだ。それに加え、表象の歴史や、複雑な人種的、政治的な問題、報道写真賞の受賞者が西欧の白人男性に強く偏っている点などをこれに加えれば、我々の目前に出される「世界の表象」はかなり完璧から遠いことがわかるだろう。

写真ジャンルの問題

…どうでしたか? アグトマエルさんは報道写真家からの観点から、①写真はそもそも事実の集積であり「真実」ではない、②だが事実を伝えるべきなコンテクスト(報道写真)においては加工する場合は必ずそれをオープンにしなくてはならない という意見を述べておられましたが、やはり「報道」そのもののあり方まで及ぶ問題であるという認識でした。

ジャパンカメラのコミュニティや海外のフォトコミュニティの意見を見ていると、「『報道写真』で加工することが問題である」というものに対して「マッカリー氏の作品は『報道写真』と言えるのか」という返答があっての堂々巡りというものが結構見受けられました。

その中でも、「写真のジャンル分けの問題はあるが、マッカリー氏が報道写真家として有名になったという事実は無視できず、現在の作風や問題になっている作品のジャンルに関わらず、報道写真に関わるものとしてのモラルが必要」という意見には説得力がありました。アグトマエルさんの意見にもありましたが、要は加工作品である事が見る人に伝わって、見る人が「騙された」と感じなければいいわけです。

アグトマエルさんの言うように、写真が「真実」からそもそも遠く、「報道」ですら真実から遠い、ということを前提にするとしても、「だから加工編集なんでもござれ」とするのか「ジャーナリストとしてのモラルというものは存在する」とするのか、ここが意見の分かれ目であり、議論の中心点となりそうです。

 

⬆アフガニスタンではタリバン政権の5年間、写真自体が禁止されていた。それが「個人的な事実の積み重ね」であったとしても、報道写真に意味がないとは言えないはずだ。

 

アップデート:マッカリーさん本人が沈黙を破り公式にコメントを発表しました。詳細はこちらから